世界の終末とアウトサイダープレイヤー

 階段をのぼるとき、いつも仕事のはじまりを意識する。


 これは儀式だと思う。祈りかもしれない。
 誰かの世界を終わらせるための。
 どこかの物語をはじめるための。


 建物自体にほとんど人気がないせいか屋上に続く階段も静かだった。まるで遮断されているようだった。まだいろいろな音は聞こえなくていいと思う。これからだ。これから。


 薄暗く、空気は淀んで、硬い靴音だけが響いてはすぐに消える。足音。視覚から感触へそして聴覚へと、めまぐるしく続く再認識。オーケー了解、俺は歩いている。


 ドアノブに手をかけた。


 扉の向こうには曇り空が広がる。頭上に灰色がたれこめ、曇天。ひび割れたコンクリートとのグラデーションが地味にうつくしい。
 地上十三階立ての古びたビルの屋上を両手をポケットにつっこんだままゆっくりと進んでいく。


 たたずむ給水塔。
 表示も注意事項もかすれてもう読めない。何に使ったのか、使われないからここに捨て置かれたのか、隅の方に廃材が積み重なっている。灰皿がわりのアルミのバケツのなか、朽ちていく吸い殻。雨に濡れて湿り崩れていく段ボール。放り出された物干し竿。粗大ごみに出し損ねた書類棚。放置されたがらくた。忘れ去られたものたち。ぬるい風が頬にかかった髪をなぶる。


 少し、霧が出てきたのかもしれない。空気中の水分が密度を増す。重くなる。肌がちりちりと反応した。


 ――そんなに敏感じゃなくていい。


 精度を落とすよう意識する。調節はいつもむずかしい。感じやす過ぎては生きていくのが困難だ、特にこちら側では。


 屋上の端に備えつけられた手すりは俺の腰上あたりまである。一度、つかむ。冷たく確かな感触、てのひらに錆がわずかに付着してざらつく。鉄の匂い。不快じゃない。軽々と乗り越え、柵の外側に立つ。境界線に立つ。下には道路。流れる車。一部渋滞。歩く人間たち。一部停滞。何度も訪れて見慣れた街並み。なじむ風景。温度。湿度。空気。人々。


 世界。


 風が吹く。目をつぶる。深呼吸をした。まぶたを開ける。


 ――ハロー、ハロー、俺の声が聞こえるか? 俺の声は届いているか? どこかにいる誰かに。俺と同じ気持ちを抱えているかもしれない誰かに。どんな形でもいい、すべてが正しく伝わらなくても構やしない。


 大切なのは意志だ。今のこの気持ちを忘れずに持ち続けることだ。
 絶望でもいい。希望でもいい。


いつかそれらは色褪せていく。もう何もわからずそれゆえに怖れるもののない少年少女ではなくなった俺たちは知っている。色鮮やかな時間は終わってしまう。とどめてはおけない。やがて忘れてしまうだろう、なくしたものを惜しむ気持ちさえ。


 大人になるというのはそういうことだと、したり顔でいうのは簡単だ。
 しかしときにそれを拒むやつらがいる。
 現実を知りながらも流されまいとし、もがき、あらがい、どうしても自分に嘘をつけず、今のこの気持ちを、抱えている感情を、何かにぶつけずにはいられないやつらが。


 ハロー、ハロー、俺の声が聞こえるか?
 お前の声を聴かせてくれよ。


 足の位置を変える。爪先を外側にずらす。じゃり、とした砂の感触。崩れはじめたコンクリートの手応えを靴裏で確かめる。腰に重心をかける。手すりにはもたれかからない。俺は立っている。


 現在位置確認。状況把握はまだまだ。


 ひじの内側に鉄柵をひっかけて上体を倒す。一気に。腕に軽く痛みが走る。背筋が伸縮する。負担をかけると細胞が騒ぎ出す。身体の使い方を思い出す。


 ――ああ、これだ。


 欲しかったのはこの実感だ。胸のうちがざわついた。知らず、微笑んでいる。


 俺たちはいつか同じ場所にたどりつく。時間はかかるかもしれないし寄り道や回り道をして手間取るかもしれないがやがては顔を合わせることになる。


 そこは崖だ。世界の縁だ。


 飛び降りてはいけない、何もかもを投げ出してダイブした日には全部終わってしまう。けれど撤退はするな、逃げるな戻るな目をそらすなお前はここへ来た。


 ──さあ、世界と対峙しろ。


 深淵をのぞきこみながら深淵にとりこまれず。苦しみながら。ときには泣きながら。いらだち。焦り。墜ちることも逃げることも死ぬこともせずに。


 じきに知るだろう、もっとも困難なことは何か。もっとも大切なことは何か。


 目を開けろ。前を見据えろ。お前は知っている。お前は持っている。握りしめた拳におさまったものはなんだ? 一度は捨てたかもしれない、しまいこんだかもしれない、結局は諦めきれずに抱え続けているものはなんだ? 確かめるために触れれば指先を熱くする。全身に血が通う。脈打ち、ふるえる、あの感覚を取り戻せ。


 ぼろぼろに汚れてもなお、光を放つそれの名前を呼べ。


 今はまだうまくいえないというなら俺がかわりに告げてやる。あくまでも俺の言葉だから後で自分なりに直せばいい。


 よう、友人。調子はどうだ? お前の声は届きそうか?
 どうか話し続けてくれ。
 どんな形でもいい、すべてが正しく伝わる保証などない。それでも俺は聞いている。聴きたいと願う。


 この世界の縁に踏みとどまるという、意志を。




     ※      ※



運命は割とごろごろとそこらへんに転がっている。
 無造作に。安易に。気づかないだけだ。もしくは自分に気がつくための心の準備ができていないだけだ。今はまだ。


 残念に思うことはない、『何者でもないということは何者にもなれるということだ』。あくまでも可能性を秘めている、という話だが。そもそも運命なんて本来ならば軽々しく扱ってはいけないものじゃないか、たとえ単なる言葉遊びにしても。それなりに重く、それなりにおごそかであって欲しいというのが俺の希望だ。


だが現実はいつも理想を裏切る。


 事実はあっけなく、ときに情けなく、とても真実だと信じるに値しないできごとをこいつが真相だと突きつけてくる。まあいいかそれも楽しいかもしれないと諦めて腹をくくるには俺はまだ若過ぎ、行動力があり、イマジネーション豊かで、内緒だがちょっぴり少女趣味で、自他に認めるロマンチストで、やっかいなことに自覚もしていた。


 そういった俺にはそれこそ運命的な出会いがふさわしい。


 ──と、ひそかに夢見ていたにもかかわらずリアルのなんとあえないことか、今でも納得がいかない。思い出すと腹が立つからそんなときは黙ってとなりにいる友人を殴って――あくまでも軽くだ手加減は俺の友情表現だと知れ――みたりする。なぜなら責任の半分くらいはこいつにあるからだ。


 なあ、聞いてくれよ。


 俺の見つけたもしかしたら運命の片鱗なのかもしれない人間が、休日ごとに代々木公園にてひとりきりで歌っていて、しかも聴いていたのは一羽のカラスだけで、そのカラスが日を追うごとに愛おしくなってしまって、しまいには唯一無二の友達だの一緒に暮らしたいだのとしみじみ語るようになっていたなんて、なんだか泣けてくる話じゃないか?



 あれは五月のよく晴れた日だった。
 世間的には連休が明けたところだったらしいが、年中不定休で働く俺様ちゃんにはあまり関係のない話だ。


 そもそも俺様ちゃんと同じ仕事をしているやつがどれだけいる? 完璧に同条件でないかぎり他人との比較は無意味だ。そして能力には個人差があるから完璧完全に同じ条件下での力比べというのは不可能に近い。


 ──働きたいやつは働けばいい、休みたいやつは休め。
 俺も仕事をしたり休んだりする。


 と、えらそうなことをいったが正直な話、どちらかというと今日は休みたかった。


「暑ッついだろこれ……」


 陽気はすでに初夏のそれだ。
 薄手の春物とはいえ黒のトレンチコートなど着てきたのはどう考えても間違いだった。全体的に黒ずくめで見た目にも大変、暑苦しい。


 涼しげで透けそうな素材のカットソーやTシャツ姿ですれ違うやつらがうらやましいことこの上ない。歩いているうちに背中が汗ばんできてうんざりさせられたが俺には俺なりのポリシーというものがあり、そんな役に立たないもの下水道にでも流しちまえといわれたら多分そいつとは三日は口をきかないだろうが四日目にさみしくなって自分から話しかけてしまうだろう。


 なんの話だったか。


 若さってのは、大体において、やっかいだ――という話だったと思う、多分。そういうことにしておいてくれ。


 周囲に並ぶすでに花の落ちた新緑は瑞々しく、水気をたっぷりとふくんで葉をおいしげらせる。鼻をつくのは樹が、幹が、枝が、葉が育とうとしている匂いだ。どこか青臭い、生々しい匂いだ。切れば白濁した樹液がにじむ、まるでアレのような。


 週末のY……公園はもっと混み合っているのかと俺は思っていた。実際に訪れたことがあるのは祭りや催しものが行われている賑やかなときで、何もない『素』のこの場所に来たのは本日がはじめてだったから少し驚いた。


 おだやかなもんだな、と思う。


 向こう側からエレキギターや、どうやって持ちこんだのかドラムの騒音まで耳に入ってくるのは閉口したが。たしか園内における無許可での楽器の演奏は禁止されているんじゃなかったか?


 だらだらと散歩を楽しみながら考える。


 さきほど同じ仕事――といったが、決して多くはないものの存在する同業者とは日ごろほとんど顔を合わせない。実際に会って話すのは上司か、担当相手か、『対象』か、今日のように伝達係も兼ねる監査部の者だけだ。


 約束した時間の五分前には彼女は待ち合わせ場所に着いていた。


 一応、腕時計で確認する。目を細めたのはまぶしいからだったのだろうか。日射しがか、彼女がか、背景と対象物の比較による効果がか。


 全身黒の、黒いだけでなく革をベースにぼろぼろのレースや鈍い光を放つチェーンに彩られ、穴だらけの網タイツを腕と脚にまとい、太ももまである拘束具めいたブーツでぎりぎりと音がしそうなほど締め上げた格好は嫌でも目立つ。


 細身の身体は女性としては長身なせいもある。耳たぶと唇が機能しなくなるのではないかと心配になるくらいじゃらじゃらとぶら下げたピアス、ほとんどの指を覆う分厚いシルバーの指輪は外敵から守るための甲冑に似ている、それらアクセサリーの照り返しのおかげもある。


 ……遠くからでも判別可能なので大変ありがたい。


 今日の彼女は大富豪の未亡人が葬式で被るようなヴェールのついた帽子をのせていた。前に会ったときは金色の長いストレートヘアだったはずだが後れ毛も見えない。よほどしっかりとまとめているのだろうか。


 エレガントであり、反骨精神も感じさせ、そして浮浪者のようだ。相反する複数の要素を融合させるなんて俺にはとてもできない芸当だった。素直に尊敬したい。


 さわやかな空気が満ちるおだやかな午後にふさわしいかどうかはこの際置いておきたいと思う。


 俺の主観によれば彼女は意外と周囲に溶けこんでいた。犬を連れた老夫婦と幼子は避けて通っていたが。


 一度創造したものを破壊し、さらにそこに意味不明(と、思われてもしかたがない)装飾を加えるという趣向は人によっては理解不能だろう。


 しかし俺様ちゃんたちの仕事だって、もしかしたら人生だって、同じじゃないか? 


 創っては壊し、造っては毀し、作っては請わす。
 くりかえし、くりかえし、同じことをリピートリピート、気づかないから終わらない、気づいたって終われない。


 そこにはもはや意味などない。行動があるだけだ。理由は後で誰かが考えてくっつけてくれる。


 だから俺は彼女の服装も、そういった服装を積極的に選んでいく内面も嫌いじゃない。暑そうだし寒そうだし何よりも着脱が面倒臭そうだと感心するだけだ。


「悪い悪いごめんごめん。俺様ちゃん遅刻した? 待っててくれたりした? 三薙(みなぎ)ちゃん」
「いや。時間通りだ」
 伝達係である監査部所属の彼女は未亡人のような帽子をとって軽く頭を下げた。
「ひさしいな、有臣(ありおみ)」


 我々には正式な名字というものが存在しない。ファーストネームで呼び合っているからといって特別に親しい間柄というわけではないので誤解しないでいただきたい。


「よう、三薙女史。あいかわらず元気そうで俺様ちゃんはうれし、い……よ」


 一瞬、言葉につまった。


 狼狽は悟られただろう、俺様ちゃんは自分の気持ちを隠すのが下手だ。顔にもよく出る。人にいわせれば別に隠す必要もないという傲慢さからきているらしいが相手の心情を慮るくらいのやさしさはあるつもりだった。伝わっていないだけだ。


 もしくは俺のやさしさが剛速球または変化球すぎて受け取れないのかもしれない。受け取り拒否された気遣いは宙に浮いてどこにもいけない。そんな行き場をなくした思いやりが俺のまわりにはふわふわとただよっていて、なんともいえない風情をかもしだし、いつからか哀愁をおびたいい男になってはいないかと最近ひそかに期待しているのだが残念ながら成果はまだでていない。



※長くなっちゃうのでとりあえずここまでー。
こんな感じのとかを書いているよ……!